福井の仏像まとめ

みなさんこんにちは。ナオヤです。

今回は先日紹介しました「福井市郷土歴史博物館「福井の仏像-白山を仰ぐ人々と仏たち-」ブロガー向け内覧会にいってきました!」で、展示されていましたすべての仏像をまとめたいと思います。

*全部テキスト手打ちしてたんですが、疲れちゃいました。途中ですが公開しておきます…。ゴメンナサイ

*福井市郷土歴史博物館の方には掲載許可いただいてます。

 

7.薬師如来立像(やくしにょらいりつぞう)

薬師如来立像(やくしにょらいりつぞう)福井市高尾町 薬師神社

平安時代(12世紀)

福井市高尾町 薬師神社


左手は薬壺(やっこ)を持ち、左手は施無畏印(せむいいん)とする薬師如来立像。

カツラ材の一木造で、東部幹部を左手前膊までを含んで一材から掘り出している。内袴は無い。

衣文は浅く刻まれ、体も全体的にバランスよく彫られており、平安後期の特徴を表すが、袈裟(けさ)の衣文に見える渦文(かもん)や茶杓型衣文(ちゃしゃくがたえもん)などは古い要素で、前代の古仏を模したものとも考えられる。また切れ長の目の表情や、左肩から斜め右に流れる袈裟の表現、左腕から下がる今朝の翻りなどは非常に特徴的で、相当な技量を持った仏師によって作られたものと考えられる。

本像を安置する薬師神社については、江戸後期に編纂(へんさん)された『越前国名蹟考』には「薬師堂 本尊立像三尺六寸行基作」と記されている。

8.薬師如来坐像(やくしにょらいざぞう)

薬師如来坐像(やくしにょらいざぞう)福井市帆谷町 薬師堂

平安時代(12世紀)

福井市帆谷町 薬師堂


左手は薬壺(やっこ)を持ち、左手は施無畏印(せむいいん)とする薬師如来像である。

ヒノキと思われる針葉樹材の一木割矧造(いちぼくわりはぎづくり)。東部幹部を一材から掘出し、耳前を通る線で前後に割って内袴りを施し、さらに三道(さんどう)下のあたりで頭部を割り放して割首としている。表面の彩色は、江戸時代の後補とみられる。

細かく彫られた螺髪(らはつ)や穏やかな表情、なで肩で平板な体つき、彫の浅い衣文など、平安後期の和様(わよう)をよく表現した像である。

本像を祀る帆谷(ほだに)町は、在地の霊山として信仰された文殊山の北側に位置する集落であり、本像も文殊山周辺に展開した山寺に起源をもつ仏像なのだろう。

9.薬師如来坐像(やくしにょらいざぞう)

薬師如来坐像(やくしにょらいざぞう)福井市国山町 愛染寺

平安時代(12世紀)

福井市国山町 愛染寺


左手は薬壺(やっこ)を持ち、左手は施無畏印(せむいいん)とする薬師如来像。

ヒノキと思われる針葉樹材の一木割矧造(いちぼくわりはぎづくり)で、耳の後ろを通る線で前後に割り、内袴りを施し、さらに頭部は三道下で割り放ち首割としている。

なで肩で、胸に適度な張りがあり、衣文線なども流れるような洗練された表現が見られる。平安後期に流行した定朝様(じょうちょうよう)の典型のような仏像である。

本像は元々、福井の新明神社(現福井市宝永)の神宮寺であった二尊寺に安置されていたもので、明治の神仏分離で二尊寺が廃された際、現在の愛尊寺に還されたと伝わる。

10.聖観音立像(しょうかんのんりつぞう)

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平安時代(10世紀)

鯖江市川島町 加多志波神社


円筒宝冠をかぶり、左手に未敷蓮華(みぶれんげ)を持ち、右手は垂下する聖観音像である。腰を左にひねり右ひざを少し浮かせて体の動きを表現している。

ヒノキと思われる針葉樹の一木造で、東部幹部を左手は肘まで、右手は手首まで、さらに両肩から垂下する天衣遊離部までを含んで一材から彫出している。内袴りは無い。

総じて太づくりの体の、両膝下や裳袖の両端に見られる翻波式衣文(ほんばしきえもん)、耳に掛かる渦巻き型の鬘髪などは平安時代の仏像に見られる要素で、10世紀の制作と思われる。

本像は加多志波神社の観音堂に安置され、毎年2月11日のオコナイの日には追儺面(ついなめん)-重要文化財-とともに拝観することができる。

11.聖観音立像(しょうかんのんりつぞう)

聖観音立像(しょうかんのんりつぞう) 福井市佐内町 西光寺

平安時代(10世紀)

福井市佐内町 西光寺


左手は未敷蓮華を持ち右手は垂下する聖観音像。

ヒノキと思われる針葉樹の一木造で、内袴りを施している。裳裾・地付き部分は別材で補修するが 本来はもう少し丈が長かったと思われる。

面長で頬の張った顔や絞って表現される腹部などは特徴的である。どっしりとした下半身と衣文線の彫りの強さは古風だが、衣文表現りどは形式化が進んでおり、平安前期から後期への過渡期の作と思われる。

本像を安置すろ西光寺は「岡西光寺(おかさいこうじ)」の名で知られ、長享3年(1489)、吉田郡次郎丸(現福井市次郎丸町)に創建された天台耳盛宗の寺院。のち柴田勝家によって北庄に移され、その菩根所となった。

12.聖観音立像(しょうかんのんりつぞう) 

聖観音立像(しょうかんのんりつぞう) 坂井市三国町南本町 西光寺

平安時代(11世紀) 

 坂井市三国町南本町 西光寺


頭に山形宝冠を着け、左手に未敷蓮華そ持ち、右手はその蓮華を開こうとする聖観音像である。腰を少し左にひねり、右足をわずかに前に出し、衆生救済の動きを表現している。

カヤと思われる針葉樹の木造で、内袴りは無い。
円く穏やかな顔、腹部を絞りながら下半身は量感を持って表現される体など、全体的にバランスよく表現され、仏師の高い技量が感じられる像である。

本像は西光寺(浄土宗)の観音堂に祀られている。当山 の開創は、寛永5年(1628)とされるので、平安時代作の観音像がどのようにもたらされたのかは謎だが、三国には同じように中世以前の観音像を安置する江戸時代創建の浄土宗寺院がいくつか存在している。

13.聖観音立像(しょうかんのんりつぞう)

聖観音立像(しょうかんのんりつぞう) 福井市飯塚町 法承寺

平安時代(11世紀)

福井市飯塚町 法承寺


山形宝冠を着け、左手に未敷蓮華そ持ち、右手は垂下させる聖観音像である。

ヒノキと思われる計葉樹の一木割矧造で、耳の後方を通り裳裾両脇に至る線で前後に割り放し、内袴りを施し、さらに後頭部のみ割首としている。

全体的にすらりとした立ら姿だが、目鼻立ちはしっかりと彫られており、威厳に満ちた表情である。裳の折返しがイチョウ形にたわむ部分や、膝下に見える翻波式風の衣文線に平安前期の名残が見られるが、彫りは全体に浅く、制作は平安後期の11世紀中頃と思われる。

本像を安置する法承寺は「飯塚の観音堂」と称され、その緑起によれば、奈良時代行基菩薩により彫刻された霊像とされる。十七年に一度しか拝し得ない秘仏で、次の御問帳は平成30年だが、今回は得別にご出展。

14.聖観音立像(しょうかんのんりつぞう)

聖観音立像(しょうかんのんりつぞう) 越前市領家町 八幡神社

平安時代(11世紀)

越前市領家町 八幡神社


両手を無くしているが聖観音として祀られている。目尻をつり上げ、唇をしっかりと閉ざし、やや厳い表情を表す。

カツラ材の一木造。頭体幹部を一材から彫出し、背面で肩から地付きまで短冊状に背袴りを施す。一木造特有の量感を感じるが、全体的にパランスよく簡潔に彫られている。裳の正面の折返しが大きくV宇状に出るのは平安後期の仏像によく見られる特徴で、11世紀後半頃の作と考えられる。

15.聖観音立像(しょうかんのんりつぞう)

聖観音立像(しょうかんのんりつぞう) 永平寺町松岡春日 天龍寺

平安時代(12世紀)

永平寺町松岡春日 天龍寺


左手は未敷蓮華を持ち、右手は蓮華を開こうとする聖観音像。腰をわずかに左にひねって立っている。
ヒノキ材と思われる針葉樹の一木造で内袴りは無い。

全体的に細身に作られているが、立ち姿のバランスはよく、顔も目鼻をしっかりと表現し、口元はやさしげである。また裳の折返しの下で腰紐がリボンのように結ばれているのは独特の表現である。

本像が祀られる天龍寺は、松岡藩主「松平昌勝」により承応2年(1653)に創建された曹洞宗寺院。本像は現在、本堂内に安置されているが、元々は松平昌勝の像を祀る御像堂内に安置される秘仏だった。

16.聖観音立像(しょうかんのんりつぞう)

聖観音立像(しょうかんのんりつぞう) 坂井市三国町新保 円海寺

平安時代(12世紀)

坂井市三国町新保 円海寺


左手は未敷蓮華を持ち、右手は垂下する聖観音像である。頭部の螺髻は、大日如来像などではよく見られるが、観音像では珍しい。県内では越前市荒谷の聖観音立像と本像のみが確認されている。

ヒノキの一木割矧造。頭体幹部を一材から彫出し、耳の後ろで前後に割り、内袴りを施している。

頬の豊かな顔に切れ長の目と引き締まった口元を表し、やや巌しさを感じる。裳の正面をV字状に折り返す点や、条帛・裳の折返し両端に見られる波状の衣文表現などから、制作は12世紀後半頃と考えられる。

本像は円海寺(浄土宗)の観音堂に安置されているが、元は同じく新保にあった灌頂寺という密教寺院の仏像であったと伝えられている。

17.聖観音立像(しょうかんのんりつぞう)

聖観音立像(しょうかんのんりつぞう) 越前市荒谷町 観音堂

平安時代(12世紀)

越前市荒谷町 観音堂


左手は未敷蓮華を持ち、右手は蓮華を開こうとする聖観音像である。髪は螺髪とし、正面に山形宝冠を戴く。

カツラの一木造。頭体から蓮台まで、天冠帯、天衣 持物を含めて全て一材から彫出する。内袴りは無い。面部は日鼻を刻み肌も丁寧に仕上げるが、その他ではやや荒削りのままノミ目が残っている。また条帛や天衣の衣文線は線刻ではなく、墨描きで表現されている。瓔珞(ようらく)や肩にかかる垂髪も墨描きで表す。体全体は赤い染料で塗られ、唇には朱が施されている。

一木から丸彫りするのは古風な作り方であり、全身を赤く染めるのと合わせて「壇像(だんぞう)」を意識して制作されたものと思われる。また細かなノミ痕を残すのは平安後期に流行した「鉈彫像」に共通し、霊木から出現する仏の姿を表そうとしたものと考えられる。

本像が祀られる荒谷町は、日野山(ひのさん)の北麓に位置し、西麓の中平吹町と並んで日野山権現の下宮(二ノ宮)として栄えた地域であり、本像は日野山権現の本地仏として造像されたものと考えられる。

18.聖観音坐像(しょうかんのんざぞう)

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平安時代(12世紀)

越前市池泉町 味真野神社


左手は掌を胸の辺りで広げ、右手は未敷蓮華を持つ聖観音坐像でめる。

ヒノキと思われる針葉樹材の一木割矧造。頭体幹部を一材から彫出し、左は耳前、右は耳半ばを通る線で前後に割り、内袴りをほどこす。漆箔と彩色は江戸時代以降の後補。

均整の取れた円満む顔、体は肉付きが穏やかで衣文線も浅く表現されている。これは定朝様が形式化した院政期によく見られるもので、12世紀後半頃に中央の作風の影響を受けて造像されたものと考えられる。

なお、この像は通形の聖観音像とは逆手の印相を表すが、これは元々が阿弥陀三尊の脇持として作られた可能性を示唆している。

19.十ー面観音立像(じゅういちめんかんのんりつぞう)

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平安時代(10世紀)

福井市照手 長運寺


左手は水瓶を持ち、右手は垂下する十一面観音像である。

髻(たぶさ)を高く結い上げ、その頂に仏面を表す。頭上面は上下二段に配置していた痕跡が残るが、いずれも欠失している。

腰をわずかに左にひねり右足を少し浮かせて、揺動するさまを表現している。
ケヤキ材の一木造。東部幹部を頂上仏面・髻から足ほぞ・足先まで、さらに天衣遊離部、左前膊半ば、右手首先までを含んで、一材から彫出する。内袴りは施さない。

全てを一材で掘出しようとする構造や、高く彫り上げられた髻、量感豊かな腹部や下半身、揺動の姿勢といった身体的特徴は平安前期の仏像によくみられるものである。

一方、彫は全体的に浅くなり、前期の仏像によく見られる翻波式衣文も腰布にその名残が見られる程度になっていることから、10世紀後半頃の造像と考えられる。

20.十ー面観音立像(じゅういちめんかんのんりつぞう)

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平安時代(10世紀)

鯖江市川島町 加多志波神社


左手に水瓶を持ち、右手は垂下する十一面観音像である。頭上に頂く菩薩面は表情を彫出しないが、これは嶺北地方の十一面観音像に時々見られるもので、霊木から仏が現れる様子を表現したものと言われている。顔は頬が豊かに張り目は伏しめがちながらもしっかり刻まれている。体勢は左足に重心をかけ右膝をわずかに浮かせて立ち揺動を表している。

カヤと思われる針葉樹材の一木造。髻から足ほぞに至る東部幹部を、左手は肘、右手は手首までを含んで一材から彫出する。
内袴りは無い。重量感のある像だが耳に掛かる鬢髪(びんぱつ)の表現や衣文線は形式化が進んでおり、11世紀前半の造像と考えられる。

本像は八幡神社境内の観音堂に安置されている。江戸時代の『鯖江藩寺社改牒』には、東庄境村に「観音宮長六尺弐寸 恵心僧都作」とあって、この観音宮に祀られていたのが本像と考えられる。

21.十ー面観音立像(じゅういちめんかんのんりつぞう)

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平安時代(21世紀)

坂井市内寺院


新たに確認された十一面観音像である。

ヒノキと思われる針葉樹の一木造で、頭部幹部を一材から彫出する。背面から内袴りを施し、蓋板をあてる。表面には江戸時代のものと思われる泥地の漆箔(肉身部)と彩色(着衣部)が施されているが、劣化し、剥落が進んでいる。

当初の尊容が判然としない部分もあるが、穏やかで上品な目鼻立ちの面相や、大きくV字状に表現されるよそ裳正面の折返しなどから判断して12世紀後半頃の作と考えられる。

坂井市内には、中世に大寺院として栄えた豊原寺をはじめ。織田信長や一向一揆の焼討ち以前には多くの密教寺院が存在しており、本像もそれらにゆかりの観音像と考えられる。 

30.勢至菩薩立像(せいしぼさつりつぞう)

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鎌倉時代(13世紀)

鯖江市中野町原 勢至堂


左手は垂下し、右手は持物を執る勢至菩薩像である。腰を左に捻り右足をわずかに浮かせて立つ。

ヒノキ材の一木割矧造。頭体幹部を一材から彫出し、耳後ろを通る縦の線で前後に割り、内袴りを施す。また頭部は三道下で割り放し割首とする。当初は漆箔像だったと思われるが現状は素地で頭髪のみ彩色が施される。

卵形の顔に端正な目鼻を刻むが、後世の修理時に目の上下を削って粗雑に玉眼を嵌めてしまい、著しく尊容を損ねているのが惜しまれる。腰帯を正面八の字状に垂らし、裳の膝下両端を持ち上げる表現なとは、京都市鞍馬寺の聖観音像など肥後定慶(ひごじょうけい)の作品によく見られるもので、本像も肥後定慶の作風の影響をうけて造像されたものと考えられる。当初は阿弥陀三尊の脇持像として作られたものと思われる。

28.菩薩形坐像(ぼさつぎょうざぞう)

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平安時代(12世紀)

越前町天王 八坂神社


両腕とも屈臂しているが肘より先を欠失しているため尊名を確定できない。
カツラ材の一木造。頭体幹部を両腕の肘までを含んで一材から彫出し、後頭部から背面にかけて内袴りを施し背板を当てる。丸くふくよかな面貌、体躯の肉付きも堂々としている。脚部の衣の襞には翻波式衣文の名残が見えるが、全体的には均整のとれた優美な表現がされており、定朝様の反映が感じられる。12世紀初め頃の造像と考えられる。

本像は、昭和38年、八坂神社本殿改修に伴って幣殿床下から発見された像であろ。おそらく明治の神仏分離により、神宮寺であった応神寺(おうじんじ)の仏像が隠されたのであろう。発見当時は矧ぎ面で解体された状態だったが、美術院国宝修理所で修復され、半丈六の仏像4躯が見事に甦り重要文化財の指定を受けた。

菩薩形坐像は肘から先がないため、どんな名前の仏様だったかはっきりわかりませんが、おそらく、智拳印(ちけんいん)を結んだ金剛界 大日如来(だいにちにょらい)だったと思われます。

29.文殊菩薩坐像(もんじゅぼさつざぞう)

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平安時代(11世紀)

福井市田ノ谷町 大安禅寺


左手は経巻を持ち、右手は剣を持つ文殊菩薩像である。

ヒノキとみられる針葉樹の一木造矧造。頭部幹部を一材から彫出し、耳後ろを通る線で前後に割り、内袴りを施す。丸い張りのある面貌に、肉付きの良い体躯で、条帛の彫も柔らかく表されている。全体的に穏やかな作りで11世紀後半頃の造像と考えられる。

大安禅寺の記録によれば、本像じゃ福井市一王寺町にあった密教寺院・一王寺(いちおうじ)から迎えられたものとされ、「大日両部之一尊」を改彫して文殊にしたと記されている。一王寺からもたらされたのは大日如来像で、それを文殊菩薩にしたのが本像と考えられる。本像の両肩や両肘の矧ぎ綿の角度は改変されており、後補の小材で角度が整えられている。また腹部正面に縦に切り込んだ痕があり、掌を合わせた法界定印が収まるのにちょうどよく、もともとは胎蔵界(たいぞうかい)大日如来像だったと推定できる。

26.千手観音立像(せんじゅかんのんりつぞう)

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平安時代(12世紀)

越前市池泉町 安泰寺


胸前に合掌手、腹前に宝鉢手(ほうはちしゅ)を表現し、左右二計38臂の脇手を持つ千手観音像である。

ヒノキとされる針葉樹材の一木造。頭体幹部は合掌手、宝鉢手、両足先、足ほぞまで含んで一材から彫出する。内袴りは施さない。漆箔は後補でめる。

頭体のすべてを一木から彫出する点や衣文を刻まない点、体躯全体の抑掲の焦さなどは荒谷観音堂聖観音立偉と共通性が見出され、同じ仏師、あるいは同じ工房で制作された可能性がめる。制作時期は12世紀後半頃と考えられる。

本像は安泰寺(曹洞宗)の本尊で、江戸時代の地誌『越前国名蹟考』には、行基の作とされ、文明18年に斯波義敏が信州より移したものと記されている。

25.千手観音立像(せんじゅかんのんりつぞう)

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平安時代(10世紀)

越前市余川町 新明神社


胸前に合掌し、腹前で掌を重ねて宝鉢手(ほうはちしゅ)を表現し、左右二計38臂の大脇手と板状の小脇手を配する千手観音像である。髻(もとどり)を大きく結い上げ左右に垂らし、正面に山形宝冠を着けている。

ヒノキとされる針葉樹材の一木造。頭体幹部を合掌手の前膊半ばまでを含んで一材から彫出し、宝鉢手、脇手をそれぞれ矧ぎ付ける。内袴りはない。漆塗は後補。

肩幅は広く胴は絞られた体躯で、裳裾両脇の翻りや脛(すね)部分にみえる翻波式(ほんばしき)衣文などに平安前期的な要素がみられる。また裳正面の折り返しが重なって表される ところなどは独特である。全体的には肉付きが穏やかになり、彫りもそれはど深さがなくなってきていることから10世紀後半頃の造像と考えられる。

 

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