日本一短い手紙を書いた武将「本多重次」とは?来歴やエピソードなど

本多重次(ほんだしげつぐ)は徳川家康に仕えた武将です。「鬼作左(おにさくざ)」とも呼ばれた怖い武将だったと伝えられていますが、非道なことを許さず、曲がったことやえこひいきを嫌い、物事を明白にする仕事ぶりで信頼されていたそうです。

はっきり・しっかり・きっぱり!

悪い事には駄目!

そんな人だからこそ鬼作左と呼ばれたのだとか。鬼という言葉から勘違いしがちですが、この場合の「鬼」はむしろある種の誉め言葉かもしれないですね(はっきり言われていた側からすると「あの鬼~!」という感じかもしれませんが)

今回の記事では福井の誇る武将・本多重次についてご紹介します。

本多重次(ほんだしげつぐ)とは?

本多重次は徳川家康の仕えた古参の武将です。

やがて徳川幕府を築く徳川家康の三河時代を支えた武将のひとりが本多重次でした。徳川四天王の本多忠勝とは親戚にあたります。

本多重次は徳川家康の祖父の時代から仕えており、三河三奉行として取り立てられていました。おじいさんの代から仕えている武将ですから、徳川家康にとっては「はっきり物を言い、厳しい仕事をするおじちゃん」のような印象だったかもしれません。

徳川家康にとって本多重次は家臣でもあるのですが、小さな頃から知っている、悪いことをするとびしっと叱るおじさんという側面もありました。

本多重次は面白いエピソードをたくさん持つ武将です。今回は諸エピソードの中から面白いものを、3つピックアップしてご紹介します。

Ep①徳川家康の次男を預かり教育する

本多重次は徳川家康の次男を預かって教育したことで知られています。徳川家康の次男は福井藩の初代藩主・結城秀康(ゆうきひでやす)です。

結城秀康は徳川家康と本妻の間の子供ではなく、奥女中との間の子供でした。徳川家康は「奥さんに知られたらご機嫌を損ねるから」と息子を本多重次に預けたといいます。結城秀康は本多重次に文武を指導され、後に福井の礎を作りました。

結城秀康は徳川家康の息子ですが、やはり本田重次のことも慕っていたのでしょう。そして、本多重次も自分に預けられた子供が可愛かったに違いありません。福井市立郷土歴史博物館には重次が小さな秀康を抱っこしている像があり、ふたりの関係性を示すものだと言われています。

Ep②徳川家康の「お医者さん怖い」を遠回しにお説教

あるとき、徳川家康が体調を崩してしまったのだそうです。医者の治療が必要でしたが「医者は信用できない(お医者さん怖い)」と医者の治療を拒んでいたのだとか。このままではさらに不調が悪化して、死んでしまうかもしれません。

そんなときに徳川家康のところにやってきたのが本多重次。本多重次は「そうですか。死にたいなら死ねばいいでしょう。この重次、一足先にあの世で待っておりますぞ」と切腹の準備をはじめたそうです。粛々と自刃の準備を整える重次に家康は平謝りし、拒否していた医者の治療を受けるようになったのだとか。

ここで本多重次ががつんと言っていなかったら日本の歴史は変わっていたかもしれませんね。もちろん、福井の歴史も変わっていたことでしょう。

Ep③日本一短い妻への手紙

本多重次と言えば、日本一短い妻への手紙をしたためた人物としても有名です。手紙の内容は、

一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ

という短いもの。今でいうLINEの短文のような手紙です。

意味は「火に注意してください。子供は泣かさないよう、面倒をよくみてください。馬の世話もよろしくね」という感じです。この日本一短い妻への手紙は丸岡城天守石垣側の石碑に刻まれています。

本多重次のこの日本一短い手紙が「日本一短い手紙文の一筆啓上賞」のきっかけになり、平成5年に全国初の手紙コンクールがはじまりました。

福井ゆかりの戦国武将・本多重次についてご紹介しました。

ゲームなどでは徳川家康や本田忠勝が取り上げられているところは見かけますが、本多重次はあまり見ないかもしれません。しかし、福井とっては後の福井県に繋がる道を作った大切な偉人ではないでしょうか。

面白いエピソードのある戦国武将なので、この機会にぜひ注目してください!

この記事をシェアする

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA