1年365日には毎日のように何らかの記念日が制定されています。また、個人単位で見ても365日の毎日は誰かの誕生日であり、誰かの命日でもありますよね。
県単位で見ても「この日は○○の日」「この日は○○ができた日」など、歴史やイベントに関わる記念日的なものが目白押しです。
少し前に放ってしまいますが、6月1日という日付は、メガネ産業で日本だけでなく世界的にも大きなシェアを誇る福井にとって重要な日なのです。
\6月1日は福井めがねの誕生日/
皆さん、ご存じでしたか?
今回の記事では福井の重要産業である福井めがねの歴史をご紹介します。
ハッピーバースデーのメロディーに乗せて、福井のめがねの歴史を振り返ってみましょう。
福井めがねは農閑期の副業がスタートだった!
今でこそ日本の中の「めがねの聖地」として知られる福井県ですが、大昔からめがねで有名だったわけではありません。福井でめがねが作られるようになったのは明治の頃だったといわれます。
明治38年に「めがねの祖(創業者)」である増永五左衛門が「農閑期にできる副業はないかな~?」と試行錯誤した結果、めがねのフレーム作りを考えつきました。「うち(の県)でも、フレーム作りができちゃうのではないか?」と閃いてしまったわけです。
福井県といえば米どころ。野菜どころ。それは令和の世になっても変わりません。明治時代も変わらず作物作りに力を入れていた福井ですが、野菜や米を作っているとどうしても農閑期がありますよね。
農閑期には、多くの農家が時間を持て余してしまいます。また、稼ぐ方法がなく、米や野菜などが不作だった年は「お金がない」「生活に困る」と頭を抱えてしまいますよね。
そこで増永五左衛門がはじめたのがめがねのフレーム作り。もともと福井のめがね作りは農閑期に稼ぐ手段として取り入れられた物作りでした。
福井めがねの技術は大阪や東京からやって来た!
令和の現在では、めがねと言えば福井ですよね。しかし明治頃にめがねのフレーム作りをはじめた頃は、まだ「福井と言えばめがね」の基礎ができ上がっていません。いきなり始めようとしても、物作りのノウハウがないからです。
そこで増永五左衛門はどうしたかと言うと「分かる職人に教えてもらおう」と考えました。大阪や東京のあたりからめがねの職人を招き、福井の人々に作り方を教えてもらったのだそうです。
やがて福井の人々は競うように腕を磨き、より良いめがねフレームを作ろうと日夜努力しました。そして、現在のような世界トップレベルの「めがねと言えば福井」という地位を作り上げたわけです。
農閑期に稼ぐ手段、ある意味現在の副業のようなかたちで福井のめがね作りはスタートし、努力の結果めがねの聖地と称えられるだけの福井になってしまったわけですね。面白い歴史ではないでしょうか。
1983年にはチタン製のめがね製造に成功!今後も福井はめがねの聖地
福井がめがねの技術を磨く中、世界はやがて第二次世界大戦に突入しました。世界大戦が終わると、福井はさらにめがね作りに邁進します。
戦後の世の中でめがね需要に応えつつ、新たなデザインのめがねや使いやすいめがねなどを製造、研究し、1983年には世界ではじめてチタン製めがねの開発に成功。チタン製メガネは軽くて頑丈、長持ちするめがねとして知られています。
チタン製めがねの製造をスタートした福井は、やがて世界的な「めがねの聖地」「めがねの産地」として知られるようになりました。
近年ではめがねその物だけでなく、めがね素材や端材などを使ったアクセサリーなども作られています。
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