杉原千畝(すぎはらちうね)は福井県にゆかりのある外交官です。第二次大戦中に多くのユダヤ人を救い、「東洋のシンドラー」とも呼ばれています。
杉原千畝とはどのような人物なのでしょうか。福井に関係のある偉人として杉原千畝をご紹介します。
杉原千畝は何をした人?
杉原千畝は日本の外交官を務めた人物です。外交官としては満州やヘルシンキ、リトアニアなどに赴任しました。若くしてソ連(現ロシア)問題のエキスパートとして知られていた杉原千畝のエピソードとしては、リトアニア赴任時のものが有名です。杉原千畝が東洋のシンドラーと呼ばれるに至ったエピソードです。
第二次世界大戦中の悲劇として語り伝えられるナチス・ドイツのホロコースト。ナチスのユダヤ人虐殺では600万人ものユダヤ人が殺されたと言われています。実際はドイツのユダヤ人だけでなく、他国のユダヤ人やそれ以外の人種も亡くなっているのだとか。
第二次大戦前から西欧の情勢は不安定でした。台地維持大戦や国境紛争、国と国との諍いや割譲などがあり、ユダヤ人は自分たちの安全を求めて、いくつかの国に住んでいました。そのうちのひとつがリトアニアです。しかし、ユダヤ人への迫害が激しくなり、第二次大戦やホロコーストから、ユダヤ人たちはさらなる安全を求めて別の国へ逃げなければいけませんでした。
ただ、逃げたくても国境を自由に渡ることはできません。逃げようにもビザを手に入れなければいけませんでした。しかし、逃げ出したいユダヤ人たちにビザを発給してくれる大使館が見つかりません。大使館によっては不安定な情勢を踏まえて閉鎖状態になっています。そのため、ユダヤ人は閉鎖準備中のリトアニア日本大使館に詰めかけたと言われています。
杉原千畝はリトアニアから脱出したいユダヤ人たちのために「ビザを発給して良いか?」と日本に問い合わせましたが、日本の回答は「発給は許さない」というものでした。本来であれば外交官は国の命令に従うもの。しかし、ここで国の命令に従うということは、多くのユダヤ人たちを見捨てるということです。
杉原千畝は独断でユダヤ人たちへのビザ発給を決意。外交官をクビになる覚悟で、退去ぎりぎりまでビザの発給を続けました。その数は6,000に上ると言われています。
杉原千畝が発給したビザは「命のビザ」と呼ばれ、杉原千畝は東洋のシンドラーと呼ばれるようになりました。
杉原千畝(すぎはらちうね)の生い立ちと福井との関係
杉原千畝は福井県と関係のある偉人です。
杉原千畝の出身地は岐阜県。現在の美濃市で生まれています。しかし、ずっと美濃市で育ったわけではなく、税務管理の仕事をしていた父親の転勤により、別に地域で育っています。杉原千畝は父親の仕事の関係により福井県で暮らしていたことがあったため、福井にゆかりのある偉人としても知られているのです。福井県での住居は越前町でした。
父親はもともと杉原千畝を医師にしたがっていたと言われます。しかし、杉原千畝は医師になりたくなかったため、医学部の試験を白紙で提出したのだとか。そして、自分が学びたいと考えていた英文学科に入学。父親に反発したためにろくに仕送りすらもらえず、自分でアルバイトをしながら学費を工面していたそうです。
しかし、社会情勢のあおりを受けてアルバイト先が次から次へと倒産してしまったため、学業と生活に困り、たまたま募集を見た外務省留学生の試験を受けて合格。大学を中退して官費による留学生となりました。そしてやがてソ連問題のエキスパートになり、現在に伝わる命のビザに繋がって行くわけです。
杉原千畝の物語は映画になっています。書籍もあり、テレビに取り上げられることもあります。福井県にゆかりのある偉人として、ぜひチェックしてみてください。
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