細川ガラシャとは?福井県出身の悲劇の美女を紹介

映画やドラマ、本が好きという方の多くは「細川ガラシャ」という女性の名前を耳にした経験があることでしょう。

細川ガラシャ夫人は福井家出身の女性で、その人生と美しさから悲劇の美女としてクローズアップされることがあります。細川ガラシャとはどのような人物だったのでしょう。

福井県に縁のある偉人として、越前国の生まれだと伝えられている細川ガラシャ夫人を紹介します。

細川ガラシャとは?

細川ガラシャ夫人は越前国(現在の福井県福井市)出身の女性です。

父親は以前に当ブログでも紹介した明智光秀(あけちみつひで)。

母親は明智光秀の正室である妻木煕子(つまきひろこ)。

明智光秀と正室の夫婦仲は非常に睦まじく、正室であった妻が夫のために黒髪を売って資金を工面したという逸話は有名です。

妻の献身に感じ入った明智光秀は妻に立身出世を約束したと伝わります。

そんな戦国時代の仲の良い夫婦の間に生まれたのが、後に悲劇の美女として名を遺す細川ガラシャでした。

名前の「ガラシャ」とは

戦国時代の人名として「ガラシャ」は異質に感じられることでしょう。

この時代の戦国武将や姫君の名前といえば漢字という印象があるのではないでしょうか。細川ガラシャの父母も名前は漢字です。

この両親が「ガラシャという名前を付けたのか?」と首を傾げてしまいますよね。

細川ガラシャの「ガラシャ」はキリスト教の洗礼名です。一般的にはよく細川ガラシャと呼ばれますが、この他に「明智ガラシャ」「細川ガラシヤ」「明智ガラシア」などと呼ばれることもあります。

本名は「明智玉子(あけちたまこ)」「玉子」「珠」「珠子」が使われることもあります。

細川ガラシャの一生

細川ガラシャは越前国で生まれたと言われています。

明智光秀の長女だと言われることもありますが、次女や三女だと言われることもあります。

明智玉子は父母のもとですくすくと育ちましたが、15歳になる頃に細川藤孝(ほそかわふじたか)の嫡男である細川忠興(ほそかわただおき)に嫁いでいます。

これは父母や夫方に意向というより、主君であった織田信長の命令に近かったのだそうです。家臣同士の関係性を深めるために嫁いだのだとか。

玉子と忠興の間には娘と息子が生まれ平穏に暮らしていました。ふたりは美男美女の夫婦としても知られていました。

美しい夫婦に子供たち。そして夫婦仲も良好。平穏で幸せな生活です。しかし、夫婦の生活はある日激変します。

玉子の父親である明智光秀が主君である織田信長に謀反を起こしたのである。歴史の授業でも習う「本能寺の変」です。

玉子の母や姉妹は自害。玉子自身は反逆者の娘として苦しい立場に追い込まれてしまいました。父親は主君に反逆し、あまつさえ命を奪っているのですから、本来であれば玉子も細川家から追われてしまっても仕方がなかったのです。

しかし、細川忠興は表向き玉子と離縁したものの、京都の屋敷にひっそりとかくまったと言われています。やがて玉子は豊臣秀吉に許されて細川家に戻ることを許されましたが、戻ったからといって苦しい立場が変わることはありません。

苦しい日々の中、玉子はキリスト教に傾倒します。やがて玉子はキリスト教の洗礼を望むようになりました。

「細川ガラシャ」の誕生です。

当時の日本ではキリスト教は禁止されていました。夫にキリスト教への入信を離したところ、案の定激怒。今までガラシャをかばい大切にしてくれていた夫から辛く当たられる結果になってしまいます。

この時代は天下取りのために武将同士の衝突が多かった時代です。細川ガラシャは石田三成に人質に取られそうになり、自害します。正確には、信仰により自害は禁じられていたため、家臣のひとりに自分の胸を槍で突かせたと言われています。

この時代の常ではありますが、人生を翻弄された細川ガラシャは40歳に満たない年齢でこの世を去りました。

細川ガラシャについては本も出ています。

細川ガラシャ夫人は本や映画、ドラマなどの媒体でよく取り上げます。

他にもガラシャ夫人に関する本や映画など多数ありますので、福井に関する歴史的な人物がどのように生きたか、そしてどのような人物だったのか、ぜひ他媒体でもチェックしてみてください。

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